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医学・医療分野における『舟を編む』とは
—医学専門出版社の編集者
2017/10/30
ライフサイエンス出版株式会社 編集部
毛利 公子 
 
編集の基本は、地道に積み上げていく作業

 2015年に出版されてベストセラーとなった三浦しをん著の『舟を編む』(光文社)。出版社の営業マンだった主人公が辞書編集部に移籍となり、新しい辞書『大渡海』の完成に向け、彼と編集部のとても長い旅が始まるという名作で、映画化もされました。そこには言葉ひとつひとつを大事に扱う編集者の姿が描き出されています。この本は、私自身、やり取りが困難な仕事に遭遇した時に励みとなった1冊です。
 編集者というと、テレビドラマなどから華やかなイメージを浮べる方がいらっしゃるかもしれませんが、地道な作業能力が求められるのです。

 私は、医学専門の出版社で編集者として働いています。編集者の仕事の内容は多岐にわたりますが、基本的な作業はどの領域においてもそう変わりはないでしょう。「これは」と思う人物やテーマを探り、企画を考え、執筆依頼。素材(原稿)を集めて、デザイナーやライターなどと表現を検討し、まとめ上げます。映像が必要になればその専門職と連携します。情報発信媒体は、紙、テレビやラジオ、インターネットなどさまざまであり、携わるものが市販物か、クライアントのいる受託物か、その両方を兼ね備える物なのかで切り口や、制作方法、編集後の方向性が変わってきます。また、医学・医療は専門色が濃いので、相談できる編集委員や監修者などとの関わりも出てきて、そういった先生方との意見調整も重要な仕事となります。  
 編集者が実際にどのような作業を行っているかを、私の経験を踏まえながらご紹介します。

市販物:売れ行きが・・・

 弊社では、雑誌、書籍、DVDなど各種出版・制作、販売を行っています。読者対象は、患者さんを含む一般の人々から医師、看護師、薬剤師などのメディカルスタッフまで様々です。対象に合わせて、いかに売れる(求められる)情報発信ができるかを念頭におきながら企画を考え、同時にコストの管理(制作費用と販売数、そこから導き出される定価)も必要になります。そして、ものが出来上がったら、販売です。ネット販売、書店での販売、版元(出版社)と書店をつなぐ取次店との交渉を行う販売・広告部門との調整も編集者の仕事に入り、場合によっては担当編集者が販売活動を行うこともあります。
 「雑誌や本がどのぐらい売れているか」のチェックは、まるで学校での成績表を見せられるようで、冷や汗ものです。ご周知のとおり、高度成長期〜バブル期にはページ数の厚いシリーズものや百科事典など大鑑ものがいくつも作られ、よく売れましたが、バブル後、そしてインターネット時代に入ってからは、そういったいわゆる豪華本は売れなくなり、一般的な本や雑誌の売れ行きも年々衰退しているのが現状です。
 だからこそ、益々、魅力的な執筆者とのつながりが鍵となり、また常に新しい情報を受信するためにアンテナを張り巡らすことが編集者には求められます。そしてアイデアと。そのために、いろいろな医学会学術集会や記者勉強会、セミナーやシンポジウムなどに参加していますが、これらから得た知識は受託物制作にも活かされることになります。やはり、“現場”に足を運ぶことが、次につながると思っています。

受託物:クライアントの要望にいかに応えられるか

 弊社では、製薬企業からの受託が多いのですが、国立系研究所や医療施設、学会などからの制作依頼もあります。担当編集者は、クライアント(依頼主)の意向を聞き、制作物の形や方向性、関わる専門家などを調整します。あいだに代理店が入る場合は、そちらとの調整も行います。受託物は、医師、その他のメディカルスタッフ、患者さん向けの資材やツールの制作が主で、中にはMR(medical representatives;医薬情報担当者)の方向けの社内研修ツールの制作を依頼されることもあり、実に多種多様です。
 弊社では、適切な情報提供のために、日本製薬工業協会(製薬協)の「医療用医薬品製品情報概要等に関する作成要領」や各クライアント(特に企業)のパブリケーションに関するガイドラインや規定に沿って原稿を作成しています。
 それから予算内でどれだけクライアントの要望に応えられるかも求められ、全体を通しての調整力と提案できる引き出しの多さが試されます。
 例えば、「患者さんの声」を医療従事者に紹介するニューズレターを作成した時は、患者さんの生の声を聞くべくアンケートや面談調査を行いましたし、最新の医学・医療情報提供では、その領域(診療科など)のオピニオンリーダー的存在の医師・専門家に話を聞くなど、素材集めの対象が幅広いです。学会から診療ガイドラインの制作を依頼されれば、膨大な量の文献検索を地道に行います。医学会で発表された内容を紹介する資材・ツール制作に関われば、取材依頼から原稿作成、時には写真撮影もこなさなければなりません(これは、自社出版物も同様ですが)。そして納品日に向かって一直線に動きます。

医学・医療分野の編集者として

 以前、アトピー性皮膚炎の治療に関する情報提供に携わったことがあります。ちょうど、「アトピービジネス」が隆盛の頃で、その背景には、ステロイドバッシング(1990年代前半)があると言われ、医師の治療に混乱を来したことから、日本皮膚科学会がその混乱に対応しようとしていた時期でした。その時、「情報発信のあり方」の難しさを痛感しました。「これが正しい治療です」と明確にすることが困難だったのです。EBM(evidence based medicine;科学的根拠に基づいた医療)の重要性が認識されはじめたのも同じ頃ではないでしょうか[日本の医療界にEBMが導入されたのは1990年代後半で、現在は一般的になりましたが、EBMを補う考えとしてNBM(narrative based medicine;個々の患者との対話を重視)も重要視されています]。
 医学・医療の最終目標は、メディカルサービスを受ける患者さんの利益であり、この分野に携わる編集者の情報発信の意義もそこにあります。専門知識をいかに一般の方が理解できるように伝えるか。いわゆる「メディカルコミュニケーター」としての役割も担っています。そのためには、「なんとなく良い、悪い」ではなく、いまさらですが、科学的根拠に基づいた記事(原稿)づくりを基本とし、情報の咀嚼力が必要でしょう。それプラス、私自身は、ベースに「人肌」「血の温もり」を感じられるような情報提供となるよう編集者としての日々の仕事に従事したいと思っています。