保健医療の現場で科学的・客観的情報をいくら提供しても,患者や消費者の行動は変わりません。リスクに対する対処行動を含めた人々の行動の基盤には,おそらくは連続スペクトルの形で,論理的・エビデンスベースな極から情緒的かつ深層心理的・インサイドベースな極に渡る認知システムがあり,一方を無視したコミュニケーションは成功しないようです(このような認知と行動の捉え方はマーケッティングの領域では定着しています)。
その顕著な現れが,原発事故に伴う放射線リスクに対する極端とも言える人々の反応でした。そもそも政府が発表する情報がエビデンスとして不十分であった上に,上記の認知構造が考慮されたコミュニケーションがなされませんでした。
糖尿病治療の領域では,2009年にある特定のインスリン製剤と発がんの問題が指摘され,リスク・ベネフィットをどう患者に伝え治療を継続してもらうか医療現場は混乱しました。また同じ糖尿病治療の領域で,米国の大規模臨床試験ACCORDにおいて強化治療群で死亡が増加し試験中止となった(2008年)事実を受け,このエビデンスをどう評価し,日本の強化治療試験(DOIT3)をどう処するかが臨床試験リスク管理の上で大きな問題となりました。
今回のJMCAシンポジウムでは,保健医療におけるリスクコミュニケーションを,上記の放射線リスクと糖尿病の問題を事例として取り上げ議論したいと思います。医療コミュニケーションや薬剤の開発・安全性・学術広報に関わる方々のご参加をお勧めいたします。
(東京大学大学院医学系研究科 教授,JMCA理事長 大橋靖雄)